■安手のポルノ映画がどうしておしゃれ映画になったのか?
『エマニエル夫人』は、1974年に公開されたフランス映画だ。当時、流行していたハードコアポルノではなく、女性客が押し寄せたという(特に日本では)「おしゃれ」なソフトポルノ映画である。
東北新社 (2001-02-23)
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おしゃれ映画と目されているこの作品だが、実のところは金儲けが第一主義のケチケチしたプロデューサーが、手抜きで作ったものでしかなかったのだ。そのケチプロデューサーこと企画・製作のイヴ・ルッセ=ルアールは、元々広告畑のプロデューサーである。これは成功した男の常だが、彼は日頃からいつか自分の映画を作りたいと考えていた。そしてある日、知人からフランスの10年前のベストセラーポルノ小説『エマニエル』の映画化すれば儲かるというアイデアを吹き込まれたイヴは、それを読みもせずに映画化の契約を取り付けたのだ。
映画のために集めたスタッフは、すべてCMしか撮ったことのない連中だった。映画の経験者は、トリュフォーの映画で脚本を書いているジャン・ルイ・リシャールと、同じくトリュフォーの編集をつとめたクロディーヌ・ブーシェだけだった。監督に抜擢されたのは、ファッション写真家で、映画監督への野心を持っていたジュスト・ジャカン。イヴが彼を抜擢したのは、彼の名前がアメリカ人っぽかったからだという。アメリカ人監督を起用すれば、話題に事欠かないと思ったのだろう。第一候補だったアート系の写真家には、安っぽいポルノの監督なんてゴメンだと断られ、その次の選択肢としてジャカンに声を掛けたのだ。
■素人だらけの撮影クルー
女優選びにも苦戦した。無名監督が撮るポルノ映画の主演という話を、フランス中の女優や女優の卵が出演を断った。主演女優はオランダで見つかった。無名のシルビア・クリステルはフランス語はほとんど話せなかった。さらに母国以外での映画出演ははじめてだった。
さて、よろこんで監督の椅子に飛びついた写真家のジャカンは、映画のいろはもろくに知らないまま撮影隊とともにタイに飛び、タイでのロケを敢行する。だが、シルビアは長い台詞が話せないため、始めに準備したカメラワークや構図は、すべて台無しになった。といっても、そもそも映画をよく知らないジャカンは、元々必要なクローズアップのショットやつなぎの場面などを無視して撮影を行っていたのである。
それでも撮影は進んだが、バンコックではフィルムの現像ができず、ラッシュは見ることができなかった。撮影フィルムは、そのままパリに送られ、パリで編集のクロディーヌらが確認した。パリのスタッフたちは、あまりの映像の出来の悪さに頭を抱えた。俳優たちの演技はひどく、使えない遠景のショットばかりだったのだ。共同プロデューサーの一人は、ロケ隊をパリに呼び戻そうと考えた。だが、クロディーヌは、とりあえず編集でなんとかするからと説得し、現場のジャカンに「クローズアップをもっと撮るように」とだけ電報で伝えた。
そんなドタバタ続きの現場だったがアクシデントはさらに続く。寺院の近くの聖域でヌード撮影を行っているところを通報され、クルー全員が逮捕されたのだ。それでも、映画は多くの人々の思惑や予想を尻目に、完成へと近づいていった。
ただし、この映画のもっとも有名な飛行機でのラブシーンは、実は監督ジャカンが演出したものではない。編集のブーシェは、この重要なシーンの撮影にダメを出し、監督にのシーンの再撮影をリクエストした。だが、さんざんだめを出しをされ、自信を喪失していた監督はそれを拒否。ブーシェは仕方なく、脚本のジャン・ジャックを呼び出し、飛行機のセットを使って再撮影を行った。その際、彼女たちは、トリュフォーの『二十歳の恋』のシーンを参考にコンテを描き、完全なコピーとしてシーンを再撮影した。のちに、このシーンをほめられた監督のジャカンは、これが自分の演出ではないことを隠し、自分の手柄にした。
■映画は勘違いを生んで大ヒット
こんな具合で、終始うまくいかなかったこの作品も編集を終え、試写会の段階までこぎ着けた。誰もがこれが傑作になったとは思えないまま公開日を待つこととなった。だが、いざ映画が公開されてみると、映画は大ヒット。連日、映画館は行列ができ、おしゃれなソフトポルノ映画の話題で、パリの街は持ちきりとなったのだ。
単に素人臭いと思われた演出やカメラワークは、これまでの映画にはない小粋でファッショナブルな演出として受けとめられた。ろくに筋立てもないと批判されることが多い映画だが、シナリオにおける構造はうまくいっていた。
贅沢で堕落したフランスの有閑マダムたちの日常と、タイのエキゾチックな風景の対比は、この映画にある種の風情をもたらしている。また、現代的な飛行機の中のシーンと、小型のボートで行き来するバンコックの水上市場の光景は、まったく異なった文明の、「交通手段」「乗り物」の差として印象的な落差を生み出した。そして、ヒットの最大の貢献者は、長身で手足が長く、まだ少女っぽいあどけなさが残るシルビア・クリステルの魅力だった。また、ゲンズブールが降りたあとに音楽を担当したピエール・バシュレの音楽もマッチしていた。
これらの要素が相まって、素人の手によるでたらめな作品になる可能性も高かった『エマニエル夫人』は、下世話なポルノではなく、小粋でファッショナブルな映画になったのだ。
■タイ駐留夫人たちの退屈な日常と性
『エマニエル夫人』の映画の中身はこういうものである。フランスの外交官の若き妻エマニエル(20歳くらいの設定)は新婚。外交官で夫と半年間んは別々に生活をしていたが、夫の赴任先タイで一緒に暮らすことになった。
エマニエルの夫・ジャンは、彼女よりも10歳以上歳が上で、エマニエルにとっては最初の男である。
ジャンは、彼女の美しさを自分だけが独占するのは罪深いと考えていた。彼は、妻の魅力が自分以外の男性にも開かれるべきであり、妻が望むのであれば他の男と情事に耽ることをねたまない、いや、むしろ歓迎すると妻には教えていた。実際、夫のジャンは奔放な性道徳の持ち主で、自分は現地の妻や使用人ら、美しい女性とは片っ端から関係を持っていたのだ。
夫の言葉とは裏腹に、エマニエルは貞節を守り、独りパリで生活をしていた。だが、バンコクへ旅立つ飛行機の機内で、初めて夫以外の知らない男とのセックスを経験する。一人目は周囲が寝静まった客席で、二人目はトイレの個室の中で。この2つのセックスは、エマニエルのこれから始まる新しい生活を予言した、旅立ちの儀式だった。
バンコクに着いたエマニエルは、ジャンに案内されてバンコック観光に出る。なにか恵んでくれと車にたかる子どもたち、締めた鶏の血抜きをしている野蛮な市場。パリとは何もかもが正反対であるバンコックの粗暴な様子にエマニエルは、はやくも嫌気がさす。
さらに、彼女を待っていたのは退屈で退廃した大使館員の妻たちだ。彼女たちは、高級なクラブで日常を過ごしている。水泳、スカッシュ、テニス、ゴルフ、そして奔放なセックス。夫の仕事の付き添いとして、このなにもない退屈な東南アジアの赴任先での生活を謳歌している。そんな、有閑マダムたちのリーダーである、アリアンヌは、エマニエルに「ここでの唯一の敵は退屈よ」とアドバイスをする。
こうした退屈な生活の中で、うぶだったエマニエルは年端のいかない少女のマリー・アンヌと出会い、彼女から自慰行為が自然な行為であることを学ぶ。また、有閑マダムのアリアンヌからは、レズビアンのセックスを手ほどきされる。エマニエルは、夫のジャンとの新婚生活に満足を覚えているのだが、さらなる成長を自分に課していた。まだまだジャンに相応しい妻にはなりきれない。そう考えた彼女は、性の奥義に近づくために精進し、自分を高めようと努力していた。
あるとき、彼女はエマニエルは大使館の妻たちからはつまはじきにされている美人のビーの存在に気付く。彼女はアメリカ人で、考古学の研究のためにタイに来ている研究者である。彼女は退屈をもてあましているフランスのマダムたちとは違い、倦怠に包まれずに生きている。そんな彼女に興味を持ったエマニエルは、自ら彼女に近づき、夫に黙って二泊三日の彼女の研究旅行に付き合う。
彼女の研究旅行は、山奥に入っていくもので、二人は旅を通して性的な意味でも親しくなる。これはエマニュエルにとって、受動的にではなく、自ら切り開いた初めての恋でもあった。
エマニエルに、奔放な性生活をすすめていた夫のジャンだが、実際にエマニエルが自分以外の存在と夜を過ごすとなると、途端に態度が変わってしまった。妻の不貞に機嫌を損ねた彼は、場末のストリップバーに繰り出し、有閑マダムのリーダー格である女性と荒々しいセックスを行うのだ。ジャンは、自分のことをさておいて、妻には貞淑を求める身勝手な男でしかなかったのだ。
■性の深淵か、オヤジの説教か
一方、ビーに夢中になったエマニュエルだが、彼女はてひどく彼女に振られてしまう。彼女はエマニエルを愛しているわけではなかった。エマニエルと寝たのは、彼女を傷付けたくなかっただけだった。
傷つき夫の元に戻ったエマニエルに、夫のジャンは、妻をマリオに引き合わせる。マリオは初老のイタリア人で、一部の人間の間で尊敬されている人物である。一見、エマニエルを賛美するプレイボーイ風だが、実はホモセクシャルであるようだ。
そのマリオは、エマニエルをアヘン窟へと誘い、「愛は官能の探求」であるとエロチシズムの本質を説教する。そして、タイ人のジャンキーたちに彼女を襲わせたのである。さらに、賭博場に連れて行き、若い男たちにムエタイの試合をさせ、その商品として勝利者に彼女との肛門性行をさせた。こうした実地訓練のあと、マリオはエロチシズムとは何かという高説を、エマニエルにくどくどと語るのである。しっかり事を成した後に、風俗嬢に説教するオヤジのようである。とは言え、映画版ではマリオはエマニエルと交わってはいないので、事も成さずにではあるのだが。
■『エマニエル夫人』に見るオリエンタリズム
当初の脚本では、この説教シーンをもって映画が終わるはずだった。本当にこのまま映画が終わってしまったら、意味不明の映画になっただろう。だが、この陳腐なラストシーンを、編集のクロディーヌが作りかえた。クロディーヌは、マリオの退屈な演説ではなく、鏡と向き合うクリステルのシーンを最後に持ってきた。このシーンは、念入りに化粧するエマニエルが、変身した自分の姿を鏡に映すという内容である。新しいエマニエルとして生まれ変わったということを暗示させる、意味深なシーンである。このカットを挿入することにより、映画にはそれなりの深みと味わいが加味されたのだ。
彼女にこのラストのアイデアを提供したのは、セルジュ・ゲンズブールとジェーン・バーキンのカップルだった。当初、この映画の音楽を依頼されたゲンズブールは、映画の出来に不満があり、仕事を断っていた。だが、仲の良かったクロディーヌに、映画を良くするアドバイスをしたのだ。
『エマニエル夫人』とは、つまるところフランス人が東南アジアにやってきて、アヘンを吸って勝手に東洋の神秘を感じ、“旅の恥はかき捨て”の域を超えない冒険的なセックスにいそしむ話である。エマニエルが性の伝道師であるマリオの導きによって、性の神秘的な深みへと導かれていくといっても、つまるところドラッグを伴うセックスをする楽しみを知った程度の話でしかない。
この映画をひとことで表すなら「オリエンタリズム」ということになる。つまり、植民地主義的な都合のいい西洋からの東洋を蔑む視点の下で作られた映画なのである。その証拠にタイ人の男性は、対等なセックスの相手としては描かれない。アヘン中毒でありエマニエルを複数でレイプする相手であり、ムエタイの試合に勝利し、その商品としてエマニエルとのアナル・セックスを行う相手なのだ。つまりは、愛情の交歓相手ではなく、感情の伴わない野蛮人としてのセックスの相手である。
タイ人女性の描かれ方も大差はない。エマニエルの夫であるジャンは、使用人であるタイ人女性に手を付けているが、それは使用人と主人の関係であり、やはり愛情とは無縁なのだ。
このように『エマニエル夫人』とは、19世紀の植民地主義的な尊大さ、東洋と西洋の不平等な力関係が前提とされた物語である。だが、こういったいわゆるポスコロ、カルスタの常套句的な批判は、実はこの物語の原作者がタイ人であり、しかも女性であるという事実にぶち当たると、その論拠は、大きく揺らいでしまう。そう、この映画の元になった小説の著者は、タイ出身の生粋のアジア女性なのである。その話をする前に、タイと西洋の関わりの歴史について、少しだけおさらいをしておきたいと思う。
■シルク王ジム・トンプソンとエマニエルの人生
『エマニエル夫人』の舞台となったタイは、一度も欧州列強の植民地となったことのない東南アジア唯一の国である。ビルマがイギリスの、ラオス・カンボジアがフランスの植民化に置かれる中、その間に位置するタイは、ちょうど緩衝地帯の役割を果たし、欧州列強からの植民地化を免れることになったのだ。
第二次大戦においては、タイの国土も戦場になった。実はタイは、枢軸国側として日本と同盟を結び、イギリス及び連合軍相手に戦った。だが、日本の旗色が悪くなると、うまく敗戦国となることを回避し、連合国の一員に鞍替えする。この裏には、アメリカの戦略諜報局(OSS。CIAの前身)による活躍があった。タイ国内に潜入した諜報部員が、タイの抗日グループの組織化を手助けし、国を挙げて日本に敵対するよう工作を行ったのだ。
そのOSSの工作員であり、バンコク支局長として大戦の終結を終えたのがジム・トンプソンである。戦後、彼はアメリカに帰ることを拒み、現地でビジネスを始めた。トンプソンは、当初欧州からの観光客向けのオリエンタル・ホテルなどの事業を手がけるが、のちにタイの伝統産業であったシルクの生産に目を付ける。彼が近代化させたタイシルク産業は、西洋で注目を浴び、彼はシルク王として巨大な富を得る。
シルク王ジム・トンプソンの逸話は、直接『エマニエル夫人』とは関係がないが、時代背景やタイにおける西洋人の生活を知るには、いい比較対象である。
元々、入隊以前は建築家であったトンプソンは、タイに自ら設計した邸宅を作った。写真で見る限り、『エマニエル夫人』に登場するジャンとエマニエルの住む家の雰囲気によく似ている。西洋風の作りではなく、タイの伝統建築を装った建物だ。外のテラスと屋内が敷居で仕切られていない、オープンな作りである。トンプソンは、ここに、西欧人のゲストを招いてパーティ三昧の日々を送ったという。
『エマニエル夫人』の原作は、1959年に刊行されたエマニュエル・アルサンという作家の手によるポルノ小説『エマニエル』である。当初は匿名で刊行されたこの小説は、哲学的な内容が絶賛され、大ベストセラーになった。 この小説は、映画同様、フランス人の娘が18歳で外交官と結婚し、バンコックへ行くというものである。だが、著者名のエマニュエル・アルサンはペンネームであり、その正体は驚くことに、タイで生まれ育った女性であった。しかも、16歳でフランスから来た外交官と結婚し、のちにフランスに渡ることになるのだ。
彼女がフランス人外交官と結婚したのは、1948年のこと。その10年後に、彼女の人生に起こったことの一部を反映したものとして、小説が刊行されている。小説のヒット時や映画公開時には、主人公が複数男性レイプされ、賭けの商品となるという内容が問題とされ、批判の声も巻き上がったという。だが、それに対し、女性作者が書いたものであり、男性優位の視点から書かれたわけではないという反論がなされた。
だが、本当にエマニュエル・アルサンこと、マラヤット・アンドリアンヌがこの小説の本当の作者ではないという説もある。外交官である夫が書き、それを妻名義で刊行したというのだ。ホッブスやニーチェ、ギリシャ神話や旧約聖書といった、西洋の思想史の引用で綴られるこの哲学的な本が、10代半ばまでを東南アジアで過ごした20代半ばの者に書けるかというと、それは難しいのではないだろうか。妻が名義を貸した説にも、一定の信憑性はある。この話題は一旦締める。
さて、ジム・トンプソンのタイシルクが成功したのは、ハリウッド映画『王様と私』(1956年)の衣装に採用されたことがきっかけだった。この映画は、19世紀のタイを舞台に、タイ王族の家庭教師としてやってくるイギリス人女性の物語である。タイを舞台にしたポルノ小説『エマニエル夫人』が1959年であるから、この当時は、エキゾチックなタイが、西欧においてちょっとしたブームになっていたことがわかる。タイはインドネシアのバリ島に次ぐ、東南アジアでナンバー2の観光地である。欧米の映画や小説の題材になることも多い。ベトナム戦争では、米軍も駐留するなど、西洋との接点も少なくない。
そして、そのタイでもっとも成功した西洋人であるトンプソンの謎の失踪が、世界的にミステリーとして騒がれたのは、1967年のこと。『エマニエル夫人』映画化され、世界的にヒットする7年前のことだ。
トンプソンの失踪は、別荘の持ち主である友人の夫婦と、トンプソンと同行していた知人の夫人が昼寝をしている間に、消えてしまったという奇怪な事件であり、身代金目当ての誘拐だとも、かつて彼が所属した諜報機関に関わる政治絡みの犯罪だとも言われているが、真相は定かでない。
〈このテーマ後編に続く〉
このテキストの初出は『BOOTLEG VOL.02』に掲載されたものです。